マイク・タイソン

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マイク・タイソン
Mike Tyson 2011.jpg
基本情報
本名 マイケル・ジェラルド・タイソン
通称 アイアンマイク
マイティーマイク
キッド・ダイナマイト
階級 ヘビー級
身長 180cm
リーチ 180cm[1]
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 1966年6月30日(45歳)
出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク州
ニューヨーク市ブルックリン区
ベッドフォード・スタイベサント地区
スタイル オーソドックス(ピーカブー)
プロボクシング戦績
総試合数 58
勝ち 50
KO勝ち 44
敗け 6
無効試合 2

“マイク”マイケル・ジェラルド・タイソンMichael Gerard "Mike" Tyson、男性、1966年6月30日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。1980年代後半から1990年代にかけての全盛期にはパウンド・フォー・パウンドともいわれた、アメリカのヘビー級ボクサーである。身長180cm(諸説あるが、慈恵医大で測定したところ180cmだった。)、リーチ180cm。周囲50cm超の首を誇る。顔と両腕、そして腹部に刺青を彫っている。絵柄は毛沢東(右腕)、アーサー・アッシュ(左腕)、チェ・ゲバラ(左脇腹)。

ヘビー級としては小柄ながら巨漢ボクサーをガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力と、ヘビー級史上最速の評価をモハメド・アリと分かつスピード、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、そのほとんどを空に切らせる鉄壁のディフェンス技術を武器に次々に大男たちをマットに沈め、モハメド・アリ引退後のヘビー級の停滞期を打ち破りパウンド・フォー・パウンドの頂点に君臨した。現役時代のみならず、長いボクシングの歴史の中においても、最盛期のタイソンはモハメド・アリと並んで最強ボクサーの有力な候補である。

フロイド・パターソンと同門下であり、ともに小柄であることや、グローブを噛むような独特のピーカブースタイルなど、両者には共通点が非常に多い。

目次

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来歴 [編集]

青年時代 [編集]

1966年6月30日アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区に生まれる。家族には5歳年上の兄ロドニーと2歳年上の姉デニス(故人)がいる。兄は医師助手として、Los Angeles County-University of Southern California Medical Centerに勤めていて、弟のキャリアを支えており、タイソンのラスベガスでのボクシング戦で何度か目撃されている。タイソンは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった。」と述べている。デニスは心臓麻痺で1991年に25歳で死去している。父親のJimmy Kirkpatrickはタイソンが2歳のときに家族を捨て蒸発している。以後、家族は母親のローラ・スミス・タイソンによって養われる。母親はタイソンが16歳のときにタイソンをボクシングマネージャだったカス・ダマトの手に託して死去している。以後、ダマトはタイソンの法的保護者になる。タイソンが幼い頃、一家はイーストニューヨークなどブルックリン区内に住んでいた。経済的な問題で、ブルックリン区近隣のフォート・グリース等を転々とした後に、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪のゲットーと呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。幼少の頃はその内向的な性格(現在でもその独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。スポーツジャーナリストの二宮清純はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し自閉症児の様な印象を受けたと語っている。実際、タイソンは自閉症ではないが躁うつ病と診断されており、長期に渡り抗鬱剤を服用していた)や、大きな近眼鏡を着用していたことが近所の不良少年達に嘲笑され虐めの対象となる。だが、大事にしていたペットのを年上の不良グループの少年たちに虐殺され、我を忘れてその不良達を殴り倒したことから自身の強さに気付き、徐々に荒んだ生活へ進む。タイソンはこのときのことを後に、「お袋はストリートで新しい服をかっぱらってきた俺のことを喜んではいなかった。俺はお袋とそのことについてどう思うかと話したり知ろうとする機会がなかった。プロとして自分のキャリアには影響していないが、精神的・個人的に自分の重荷となった。」と語っている。9歳から12歳の間に51回も逮捕され、ついにニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監。そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングと出会う。その後、少年院のボクシング担当教官だったボビー・スチュワートにより才能を見出され、繋がりのあった名トレーナー、カス・ダマトに伝わり、ダマトがタイソンの才能に驚愕し身元引受人となったため少年院を出所後、ダマトの下にてボクシングの英才教育を受けることになる。

まずはアマチュアボクシングでキャリアをスタートし13歳の時に初試合を行った。そして数年間キャリアを積んでいき、その間にジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得。その後ロサンゼルスオリンピックへの参加を狙うが、オリンピック出場を確実視されながらも国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックへの参加は叶わなかった。タイソンのようにポイントではなくノックアウトを狙うファイタースタイルの選手は、ポイントゲームであるアマチュアボクシングには合わない面もある(最終選考会決勝戦でタイソンを破ったヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得。その後1990年にプロで再戦しタイソンが1RKO勝ちを収めている)。

タイソンのアマチュアでの通算成績は記録に残っている中では52戦47勝5敗。ただし、USアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っているため、正確な戦績は不明。

プロボクサー時代 [編集]

1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。この年、11連勝を飾った直後トレーナーのカス・ダマトが死去。

その後、通算28連勝し1986年11月22日、29戦目にしてトレバー・バービックに2RTKO勝利し、WBC世界ヘビー級王座を獲得。史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級王者となる。翌年、1987年3月7日にはジェームス・スミスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得。さらに同年8月、トニー・タッカーに判定勝ちしてIBF世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功。

1988年2月に、元ファッションモデルで女優のロビン・ギブンスと結婚。しかし、すぐに離婚した。

通算9度の防衛に成功することになるが、1988年に行われたマイケル・スピンクス戦後、カス・ダマトがその生前、絶対に組んではいけないと言っていたドン・キングにプロモートを受けるようになってからは精彩を欠くようになる。一般的にこの1988年までがタイソンの絶頂期と言われている。

この年の前半、ボクシングを始めた頃からの後援者であったビル・ケイトンと共にタイソンのマネージメントを担当し、そしてダマト以外では最もタイソンから信頼されていたジム・ジェイコブスが白血病により突然死去。その頃からドン・キングがタイソンの獲得を狙いタイソンの妻であったロビン・ギブンスに頻繁に接触し取り入ったため、タイソンのチームに亀裂が入り始める。そして年の後半、ダマトの死後からそのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていたケビン・ルーニーを突然解雇。そして、マネージャーのビル・ケイトンも解雇し、ダマトが残したチームはバラバラとなる。その後、タイソンはドン・キングとの契約を正式に結ぶことになる。家族同然だったルーニーはボクシングのトレーナーとしてだけでなく、タイソンのモラルや私生活の監視役でもあった。新しいチーム態勢ではタイソンの周囲に金目当ての「イエスマン」ばかりが集まり、タイソンの私生活は急激に乱れる。離婚騒動、自殺未遂、訴訟沙汰、交通事故、放蕩、練習不足、度重なった試合の延期・・、リング外でのトラブルの話題が増えていく。

案の定、プロ入り以来初めての長期ブランクを経た1989年フランク・ブルーノ戦では、別人のような緩慢で雑なボクシングを披露した。このブルーノ戦はそれでも勝ったがまともにカウンターを貰い初めてグラつく姿も見せている。タイソンの兄弟子ホセ・トーレスはこの試合を見て「カスが教えたものは何もかも失われていた。左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ・・・。そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」というコメントを残している。次戦のカール・ウイリアムス戦では、わずか1Rのフック一発で試合が決したため目立たなかったが、その動きにかつての切れはなく、生放送では解説の浜田剛史がタイソンのボクシングに首を傾げるような発言をしている。また、浜田は次の試合の直前には、前回東京で行った試合の前にはコンディションは完璧であったが、それが85パーセントまでしか仕上がっていないと指摘した[2]。次戦、タイソンは試合を急にキャンセル(ドノバン・ラドックとの防衛戦が決定していた)するなど相変わらずゴタゴタが続き、1990年2月11日に日本東京ドームジェームス・ダグラスに10ラウンドKO負けしてタイトルを失う。これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星だった。さらにタイソンの転落は続く。1991年にディズィリー・ワシントンをホテルの一室でレイプしたとして1992年に刑務所へと収監された(この事件に関してケビン・ルーニーはタイソンがハメられたと見解を出している。[1])。

6年の懲役刑を言い渡されたが3年間服役後の1995年に仮釈放され、翌年の1996年3月16日、フランク・ブルーノを3RKOで破り、WBC世界ヘビー級タイトルを再度獲得し世界王者へと復権する。なお、服役中にイスラム教に改宗し、マリク・アブドゥル・アシスという名を持った。同年9月、ブルース・セルドンを1ラウンドTKOで破り、WBA世界ヘビー級タイトルも獲得。再び統一王者になったが、11月にイベンダー・ホリフィールドに11ラウンドTKOで敗れ、タイトルを失う。翌年6月28日に行われた再戦ではホリフィールドのWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、耳噛み事件(雑誌等で世紀の噛み付きとも称された)を起こし3R終了時に失格負けとなった。この反則行為により一年間のライセンス停止処分を受けた。

1999年に復帰するも年に1試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日にレノックス・ルイスの持つWBC、IBF、IBO世界ヘビー級王座に挑戦。結果は8RKO負け。2003年6月、暴行容疑で再度逮捕。2004年4月15日、K-1の試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、実現は不可能であった。2004年7月30日、復帰戦となるノンタイトルマッチで1ラウンド中盤で靭帯断裂。その怪我が響き、ダニー・ウィリアムズに4ラウンドKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕。2005年6月12日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰。無名のケビン・マクブライドを相手に戦うも、年齢から来る体力の衰え、そして膝の怪我の影響からか動きに精彩を欠き、6ラウンド終了後棄権しTKO負け。試合後のリング上でのインタビューで 「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」 と、引退を示唆した。正式な引退発表しなかったが、結局はこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打った。

2008年、カンヌ国際映画祭にて

引退後〜現在 [編集]

2006年12月29日、自動車でナイトクラブから帰宅する途中にパトカーと遭遇。衝突しかけた折りに取り調べを受けた際、飲酒運転およびコカイン使用所持(再犯)が発覚したことにより逮捕された。2007年11月19日、禁固1日と執行猶予3年の判決。

2008年5月16日、ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー“Tyson”が第61回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。同日行われた記者会見では、タイソン本人が作品の題材となった自らの人生について語った。

2009年6月6日、ラスベガスで3度目の結婚式を挙げた[3]。11月12日、ロサンゼルス国際空港で自分と家族の写真を撮ろうとしたカメラマンともみ合いになり暴行をした疑いで逮捕されたが、その後証拠不十分のため不起訴処分となった。

2010年7月2日、メッカ巡礼のためサウジアラビア入りをする[4]

2011年6月12日、ボクシングを志してからの目標でもあった国際ボクシング殿堂への殿堂入りを果たす。

日本の格闘技団体等との関係 [編集]

  • タイソンのネームバリューは格闘技団体にとっては最高のターゲットである。アントニオ猪木が最初に、後にK-1、さらにはPRIDEが頻繁にタイソン招聘をぶち上げている。当時は、全盛期でないにしろ、タイソンをリングに上げるということは途方も無い夢であった。何度か構想がぶち上げられたが、実際問題、金銭面で、タイソンの収入と日本プロレス界が出せる金額にあまりにも開きがあり実現することはなかった(他の要素もあり)。
  • 2003年8月15日、K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGASではボブ・サップキモとの試合後に「Tyson, you're next!!(タイソン、次はお前だ!)」とリングサイドで観戦していたタイソンを挑発すると、タイソンが「Sign the contract big boy.(契約書にサインしな、デカい坊や)」と返答したことからサップとの対戦が行われるのでは?と格闘技ファンの期待を煽ったが、結局現在に至るまで実現していない。過去の犯罪歴による入国不可問題(日本国または日本国以外の国の法令に違反して1年以上の懲役もしくは禁固またはこれらの相当する刑に処せられたことのある者は原則として日本に入国不可)や何よりその高額なファイトマネーなどが絡み、いまだ実現に至っていない。しかし、上述のコカイン使用所持の罪により、ついにタイソンを招聘する格闘技団体はなくなってしまった。

逸話 [編集]

  • かつて日本テレビ系で放送されていた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』にゲストとして出演したことがある。その際、解答者として出演していたタイソンファンの安部譲二がタイソンにミリオンスロットのボタンを押してもらったが、使い勝手のわからないタイソンはボタンをおもいっきり押してしまったため、スロットが壊れて得点が表示される画面が消えてしまった。
  • ストリートファイターII』に登場しているマイク・バイソン(MIKE BISON, M.BISON)は彼がモデルとなっているが、海外版では肖像権の影響で名前のみバルログ(BALROG)に変更されている。
  • 無類の女好きであり、多いときには一晩で24人もの女性と寝たという。トレバー・バービック戦やジェームス・スミス戦では淋病治療中の中での試合だった。結果的にこの女好きな性格が災いし(本人はいまだに無罪を主張しているものの)レイプの訴えを起こされ有罪を宣告されている。この事件以外にも多くの女性から何度もセクハラ等で訴えを起こされている(女性の狂言であったと発覚したケースも多い)。
  • 余りにパンチ力が強かったためアマチュア時代からスパーリングの相手に苦労しており、15歳時には週給1000ドルを支払って当時の世界ヘビー級王者ラリー・ホームズのスパーリングパートナー達を雇っていた。(雇う際、スパーリングパートナーから出された条件としてタイソンは20オンスの大きなグローブを着用しスパーリングパートナーは通常の14オンスのグローブを着用というものがあった。そして、週給1000ドルという金はカス・ダマトの後援者であったビル・ケイトンジム・ジェイコブスが負担していた)
  • ダマトは速い速度で相手との距離を詰める生粋のファイタータイプを育成することを得意としたが、このタイプがなじむ一番の条件は小柄であることだった。本人もこれを十分承知しており、タイソンが一番背が伸びる時期だった頃に背中に25kgの錘をつけさせて毎日ジョギングさせたという。
  • 兄弟子のホセ・トーレスによればタイソンはカス・ダマトと初めて会った12歳時に身長は5フィート7インチ(約170cm)・体重は186ポンド(約84kg)あり筋肉の塊だったという。トーレスはその後当時を振り返りこう語っている。「9歳から12歳の間に、51回も逮捕されたということに驚き、それ以上にタイソンの才能にビックリした。こんな子がいるのか、という程のスピードだった。彼が世界チャンピオンになることを疑う人なんていなかった。でも、当時からカスの家の外で、しょっちゅう問題を起こしていた。」
  • カス・ダマトは12歳のタイソンの練習を初めて見せられた際、そのリング上でのパフォーマンスにタイソンがまだ12歳であることに信じられない様子だったという。ダマトの友人でもあった作家ピート・ハミルはその後、13歳のタイソンを初めて見た時の印象をこう語っている。「信じられないようなパンチ力だったよ。それにあのスピード。正にダイヤモンドの原石だった。でもマイクには拭い去れない影みたいなものが感じられた。いつも悲しそうにしてるんだ。話し掛けても、決してこちらの目を見ようとしない。」
  • 2009年に娘を事故で失い、そのショックから立ち直り人生を変えるため、肉食を絶ちヴィーガン(菜食主義)へ転向したことを告白。

タイソン語録 [編集]

主にPLAYBOYSports Graphic Numberに掲載されたインタビュー記事より抜粋。以下のカスとはトレーナーのカス・ダマトである。

  • 「俺は何も持たずに生まれてきた。そして、何も持たずに死ぬだろう。」
  • 「悲劇を見たけりゃまずヒーローを舞台に上げろってな。皆、悲劇が大好きなんだよ。嫉妬のせいでね。幸せな人生を歩んでいる人間を見ると、そこに悲劇を起こしたくなる。あんたらみたいなレポーターが、まずそうじゃないか。」
  • 「俺は史上最高のボクサーだ。俺はボクシングを変えた男なんだぜ!?(どういう風に変えたのか?という問いに)原始の形に戻したのさ。殺るか殺られるか・・。皆、本当はそういうファイトが見たいんだよ。だから俺は金を稼げた。人が俺を恐れるのは、俺が奴等の隠している真実を暴いちまうからだ。偽善者どもめ!」
  • 「俺はボクシングを原始的なものに戻したんだ。殺るか、殺られるかのな。それこそ皆が見たがってたもんじゃないのかい?カスはよく言ってたよ。世の中は、悪い奴を見たがっているってな」
  • 「俺はペシミスト(悲観論者)じゃない。オプティミスト(楽観論者)さ。でもペシミズム(悲観)ってものを知ってるオプティミストだ」
  • 「俺はハードに遊び、ハードに働き、そしてハードに死ぬのさ。」
  • 「みんな、マイク・タイソンのことなんてどうだっていいのさ。それが現実だよ。俺のことなんて、レイプくらいしそうな奴じゃないか、って思ってるんだ。」
  • 「みんなは俺を哀れな奴と言うけれど、そいつは侮辱だぜ。俺は同情なんか軽蔑する。」
  • 「全ては幻だ・・。真実は死だけだ。」
  • 「俺の人生なんて全くの無駄さ。これまで30年を生きてきて幸せだったことなんか一度も無かった」
  • 「(刑務所では)誰が一番強いのか確かめたがる奴が多いんだ。でも、ああいうところに居る時の俺は無敵だよ」
  • カス・ダマトとマイク・タイソンという人間の間には一種の魔法が生まれていたんだと思う」
  • 「カス・ダマトはオレにとってオヤジ以上の存在だった。誰でもオヤジになることはできるが、しかし、それは血がつながっているというだけの話だろう。カスはオレのバックボーンであり、初めて出会った心の許せる人間だった」
  • (君がどこに行こうと何をしようと人は見ているし追いかける。これほどの有名人というのも大変なんじゃないか?という問いに)「俺には本当のマイクが分かってる。俺はただの人間さ。ここに存在しているだけだ。何が起ころうとパンチで道を切り開いていく。それだけさ」
  • (いつも見られている、詮索されているっていうのは辛いかい?という問いに)「あんた達のせいでそうなったんだ。良いことだろうと悪いことだろうと、あんた達がそれを引き起こす。俺について悪いことを書くだろう。そうすると誰か俺に同情する奴が出てくる。良いことを書くと妬む奴が出てくる。あんた達が何をしようと必ずバランスは取れるってわけだ。それを不当だと思う人間もいるし、正当だと思う人間もいる。俺が刑務所に入ってたこと、それを正義だと信じる人間もいるし、不法だと信じる人間もいる、生きのびてる。機能している。大事なのはそれだけさ」
  • 「俺は『シンドラーのリスト』を見た。奴ら(ナチス)がユダヤ人に何をしたか。今まさにボスニアでやってることさ。特に理解があったわけじゃないが、連中がボスニアで住民をバスやトラックに乗せているのを見たとき、俺は考え始めた。『シンドラーのリスト』じゃないか。こいつらはヒトラーがしたのと同じことをやってる。それを気にする人間なんかほとんどいやしない。気にする人間には、なにもできる力はないんだ」
  • (どうしてボクシングをやりたいんだ?きつい仕事じゃないか。という問いに)「きつくない仕事なんてあるかい?あんた達だって記事が書けなきゃ笑い者になる。世間は厳しいものさ。しかも冷たいときてる」
  • (モハメド・アリが長いブランクの後カムバックしたのと、君のカムバックとの間に共通点はあるかい?という問いに)「いや、ひとつもない。俺は刑期を務めていた。アリは服役してたわけじゃない。外にいて、自分の人生を生きていた。俺のほうが良かったかもしれない。あるいは悪かったかも。分からないな。外の世界でボクシングのすぐ近くにいながら、それに手を触れることのできない。そのほうが欲求不満の度合いは強いかもしれない。そのほうが辛いかもしれない。俺よりアリのほうが辛かったかもしれない。俺は全てから切り離されていた。俺にとって、服役中ボクシングが現実であったことは一度もなかった。アリにとっては、ボクシングはそこにあった。俺はリングがどこにもない世界にいた。アリはリングが目の前にあるのに、リングには上がれない世界にいたんだ」
  • 「オレは勝ってただカスが喜ぶ姿を見たかっただけさ。それだけで満足だった。少なくともオレは世界一チャーミングな男になろうとも、ミスター・ブラック・アメリカになろうとも思っていない。勝てばすべてが解決するとカスに教わっただけなのさ」
  • 「今は階級も多すぎるし、タイトルも多すぎるんだ。だからこそボクシングはでけぇビジネスになったんだが、そのせいでどのボクサーも小さくまとまるようになっちまった。チャンピオンになるのに昔ほどハードな練習する必要が無くなったからな。階級制も全然好きじゃねぇ。誰がチャンピオンか分かんねえじゃねぇか。昔、階級が7つしかなかった頃は、ボクシングのファンじゃなくても誰がチャンピオンかってことはちゃんと知ってた。ところが今じゃチャンピオンは16人も20人もいる。アホみてぇだよ。」
  • 「今じゃ、時間が経てば経つほど、ボクシングそのものがどんどん落ち目になってきてる。俺達だってこのままじゃ潰されちまうから、何とかしなきゃなんねぇとは思ってるさ。でも俺達ボクサーを救うのはアメリカ医療協会なんかじゃねぇんだ。健康管理なんて、てめえで十分やれる。とにかくこの業界の奴らはあまりにも貪欲で自分達でボクシングそのものを食いつぶしちまうんだ。ボクシング界なんてがめついクソ野郎ばっかだぜ。」
  • (政治には興味を持ってますか?という問いに)「黒人だったらどんな奴でも大なり小なり政治に関わってるさ。この国を牛耳ってる奴らは、俺達にやりたい放題じゃないか。奴等には、どこまでいじめれば俺達が暴れだすかよく分かってる。どうして黒人が殺し合いをするか知ってるか?あんたらがしたことに対して怒ってるからさ。思うに福祉ってのは最悪だな。クラックより酷い中毒になっちまう。頼っちまうんだ。ただで何かを貰うのがどれだけ楽か、分かるか?何もせずにただベッドに寝て、色んな男とヤりまくって、子供をゴロゴロ作ってればそれだけで福祉の金が入ってくるんだ。そんなことをしてれば、すぐにモラルも倫理も仕事に対する価値観もなくしちまう。福祉ってのはそういうもんだよ。」
  • (出所後、女性団体からの抗議を受けて)「あいつらは、何で俺のアラ捜しをしたがるんだ?俺はスラムから出てきたボクサーで、これまでの人生で二つ、三つ間違いもした。刑務所に入って刑期も努めた。無実の罪で不当な刑期を努めた。その後、連中は何か喧嘩をしたのか?黒人女性に暴力を振るうなだって?黒人女性のことなんか誰も気にしちゃいないさ。それが俺を撃つチャンスにでもならない限りはね。俺を卑劣な悪魔にでっちあげたいのか?どうか俺から離れててくれ。」
  • (出所後、これからどうするのかと問われて)「俺に理論物理学者にでもなれって言うのか?俺って男には、ボクシングしかねえんだ。」
  • 「(どうして耳を噛んだりしたのですか?という問いに)ホリフィールドとは二度目の対戦だった。俺は何より頭にきてた。奴をメチャクチャにしてやりたいと思った。それでキレちまったんだ。(何に怒ってたんですか?という問いに)俺の人生のこと。(ホリフィールドとの)最初の対戦のこと。俺を悪く言った奴等のこと。そういうことを考えたら腹が立って仕方がなかった。例えば最初の対戦の時、ホリフィールドは最初の2ラウンド、わざとバッティングをしてきた。こっちが気を失いかけたほどだったんだぜ?それを二度目も同じようにやられたんだ。またかと思ってプツンときちまった。ジョージ・フォアマンは、ホリフィールドはこれまで見たなかで一番ダーティーなファイターだ、って言ってたんだぜ。最初の対戦のときなんて、あのおかげで、すっかり感覚が麻痺しちまって、パンチを貰ってるのも分からなくなってたほどだった。ああ、あのバッティングはわざとだったよ。絶対にな。」
  • (つまり、復讐するために噛み付いた、ってことですか?という問いに)「殺してやりたかったんだよ。噛み付いてやりたかった。頭にきまくってたのさ。(試合後はどう思いましたか?という問いに)どうしようもなくなっちまった。あんなことをやっちまった自分が腹立たしかったよ。それ以前は、怒りを感じながら試合に臨んだことなんてなかった。一度もな。そうは見えなかったかもしれないが、あの試合まで俺は絶対に怒りを引きずったままリングに立ったことなんてなかったんだ。だから、あんなことをやった自分が恥ずかしかった。ショックだったし怖かった。あんなことになるなら、(普通に戦って)負けたほうが良かったさ。」
  • (二度のホリフィールド戦はあなたの経歴にどんな影響を与えたんでしょう?という問いに)「あんまりいい影響じゃないよな。俺には敵が多すぎる。そういう奴等が全てをコントロールしてるんだからな。奴等は俺の評判をできるだけ下げようとしてるのさ。クソッタレどものことなんて、もうどうでもいい。俺は名誉の殿堂入りするチャンスを自分でダメにしちまった。そういう男になることを、あれだけ夢見てたっていうのにな。だから、もうどうでもいいんだ。評論家どもは、ホリフィールド戦のことを持ち出して俺を否定するだろう。でも、アリだって負けたことはあるんだぜ?もう本当にどうでもいいよ。俺の人生なんて、もう終わりさ。あとはただ生きていくだけだよ。(終わり?)もちろん、カネは稼げるだろうさ。タイトルだって獲れるかもしれない。だが、俺の社会的地位ってやつは? ゼロさ。」
  • (出所後3戦目にして世界タイトル一冠をまず奪取、そして4戦目でブルース・セルドンを倒し二冠を達成した直後、リング上のインタビューで)「ああ・・カス・ダマト。あんたはツー・ダウンをとったぞ。あとワン・ダウンで俺達の勝ちだ。あんたは遠い遠いところで寂しがってるんだろうな。もう少し待っててくれ。俺が肩の荷を下ろしてやるぞ!」
  • 「俺は1000人の女も、高価なシャンパンも、超高級なホテルも、舌がトロけるような食事も味わってきた。酒池肉林の顛末がココ(刑務所)に入れられてるってわけだ。」
  • 「裏切りから身を守るには、全ての決定を自分自身で下すことだ。たとえ、それが間違っていたにしろ・・。」
  • ステレオタイプってやつさ。良いことでも悪いことでも一旦(記事に)書かれたら、それがたとえどんな嘘であろうと読んだ人にしてみれば大概真実ってことになっちまう。それが真実から3歩遠ざかった嘘だとしてもだ。人間っていうのは世の中の早い流れに対応するために、物事を手軽なステレオタイプで理解したがるもんなんだ。で、書かれたことを信じている奴に3歩戻して真実を伝えようとしてもそいつは本当に難しいことだ。」
  • 「また将来、どこかの誰かが俺を嵌めるだろうよ。きっとそうなる。そして、みんな“いかにもあいつのやりそうなことじゃないか。きっとやったんだぜ”なんて言うに決まってる。」
  • ウエイトトレーニングなんてチーズケーキを殴ってトレーニングする様なものさ」
  • (ファイターをファイターたらしめているものは何か?という問いに)「痛みを受け入れる術(すべ)を身に付けることだ。」
  • 「相手が傷付いたと見たら、すぐ倒しに行く。打って倒す。これが俺のMOさ。(ラテン語のModus Operandiの略。スラング化して“これしかない俺の生き方“)」
  • 「俺はマイク・タイソンが好きじゃない。嫌いなんだ。もし、もう一度生まれてくることが出来たら、今よりはマシな人生を送れることだろうよ。」
  • 「カスが最も熱心に教えてくれたのは、ボクシングの技術それ以上に心の問題だった。リングに上がるとき、ボクサーは誰でも恐怖で凍り付いてしまう。その恐怖をどう克服するか。修練しかない。人は熱心に励むことによって、恐怖を友人にすることが出来る。どんなに強かろうが、修練したことのない奴はクズみたいなものだ。いかに恐ろしい相手の前でも勇気を失われずにいられるのは修練の力だ。恐怖(フィア)は火(ファイア)と同じ。人々を焼き尽くして駄目にすることもあるし、素晴らしいことを成し遂げるエネルギーにもなる。人間にとって何が一番大切か。力ではない。姿でもない。決心と人格。これだよ・・。カスは毎晩、毎晩、そんな話をしてくれた。俺にとって、なんと新鮮な経験だったことか・・。」
  • 「なぜ日本人は俺をアメリカンドリームだなんて言うんだよ!(インタビュアーの返答を遮り)違う!何も分かっちゃいない。俺はアメリカの悪夢なんだ!」
  • 「本当の自由は、何も持たないことなんじゃないかな。1セントさえ持てなかった頃のほうが、もっともっと自由だった。」
  • (ファイターとして成功するには何が必要か?との問いに)「決心と自己管理。それがあれば成功できるさ。」
  • 「12才の頃から偽りの人生を送って来た。人生の目的は全てを手に入れる事だと思ってきたが、年を取ると全てを失うのが人生だと知った。最愛の人も、富も失う。やっとこの真理が分かった」
  • アニマルプラネットにて趣味である鳩飼育に興じる自身の番組が制作されることが決まり)「この番組にはバカでかい豪邸やロールスロイスなんて出てこない。あの頃のマイク・タイソンは死んで、とっくの昔に地獄に墜ちたのさ。」
  • 「(趣味で飼育している鳩について)俺の兄弟みたいなもんさ。友達でもある。どんな理由であれ、俺に金をせがんだり、俺を倒そうとしたり、傷つけたりする心配をしなくて済むからな。」

戦績 [編集]

  • プロボクシング:58戦 50勝 44KO 6敗 2無効試合
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1985年3月6日 1R 1:47 TKO ヘクター・メルセデス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 プロデビュー戦
2 1985年4月10日 1R TKO トレント・シングルトン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
3 1985年5月23日 4R KO ドナルド・ハルビン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
4 1985年6月20日 1R 0:39 KO リッキー・スペイン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
5 1985年7月11日 2R TKO ジョン・アンダーソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
6 1985年7月19日 3R 2:04 KO ラリー・シムズ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
7 1985年8月15日 1R 1:05 KO ロレンゾ・キャナディ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
8 1985年9月5日 1R 0:39 KO マイケル・ジョンソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
9 1985年10月9日 1R 1:28 TKO ドニー・ロング アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
10 1985年10月25日 1R 0:37 TKO ロバート・コーリー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
11 1985年11月1日 1R 0:54 TKO スターリング・ベンジャミン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
12 1985年11月13日 1R 1:17 KO エディ・リチャードソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
13 1985年11月22日 2R TKO コンロイ・ネルソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
14 1985年12月16日 1R 1:19 TKO サミー・スカフ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
15 1985年12月27日 1R 0:50 TKO マーク・ヤング アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
16 1986年1月11日 1R 2:16 TKO デビッド・ジャコ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
17 1986年1月24日 5R 0:46 TKO マイク・ジェームソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
18 1986年2月16日 6R 1:19 TKO ジェシー・ファガーソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
19 1986年3月10日 3R 2:39 KO スティーブ・ゾウスキー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
20 1986年5月3日 10R 判定3-0 ジェームス・ティリス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
21 1986年5月20日 10R 判定3-0 ミッチ・グリーン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
22 1986年6月13日 1R TKO レジー・グロス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
23 1986年6月28日 1R 2:03 KO ウィリアム・ホシー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
24 1986年7月11日 2R 1:43 KO ロレンゾ・ボイド アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
25 1986年7月26日 1R 0:30 KO マービス・フレージャー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
26 1986年8月17日 10R TKO ホセ・リバルタ キューバの旗 キューバ
27 1986年9月6日 2R 1:41 TKO アルフォンソ・ラトリフ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
28 1986年11月22日 2R 2:35 TKO トレバー・バービック カナダの旗 カナダ WBC世界ヘビー級タイトルマッチ
29 1987年3月7日 12R 判定3-0 ジェームス・スミス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC・WBA世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛1
30 1987年5月30日 6R 2:00 TKO ピンクロン・トーマス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛2・WBA防衛1
31 1987年8月1日 12R 判定3-0 トニー・タッカー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC・WBA・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛3・WBA防衛2
32 1987年10月16日 7R 2:59 TKO タイレル・ビッグス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛4・WBA防衛3・IBF防衛1
33 1988年1月22日 4R 2:55 TKO ラリー・ホームズ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛5・WBA防衛4・IBF防衛2
34 1988年3月21日 2R 2:54 TKO トニー・タッブス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛6・WBA防衛5・IBF防衛3
35 1988年6月27日 1R 1:31 KO マイケル・スピンクス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛7・WBA防衛6・IBF防衛4
36 1989年2月25日 5R 2:55 KO フランク・ブルーノ イギリスの旗 イギリス WBC防衛8・WBA防衛7・IBF防衛5
37 1989年7月21日 1R 1:33 TKO カール・ウィリアムス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛9・WBA防衛8・IBF防衛6
38 1990年2月11日 10R KO ジェームス・ダグラス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC・WBA・IBF王座陥落
39 1990年6月16日 1R 2:47 KO ヘンリー・ティルマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
40 1990年12月8日 1R 2:27 TKO アレックス・スチュワート アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
41 1991年3月18日 7R 2:22 TKO ドノバン・ラドック アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
42 1991年6月28日 12R 判定3-0 ドノバン・ラドック アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
43 1995年8月19日 1R 失格 ピーター・マクニーリー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
44 1995年12月16日 3R 2:32 KO バスター・マシスJr アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
45 1996年3月16日 3R 0:50 TKO フランク・ブルーノ イギリスの旗 イギリス WBC世界ヘビー級タイトルマッチ
46 1996年9月7日 1R 1:49 TKO ブルース・セルドン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛1
47 1996年11月7日 11R TKO イベンダー・ホリフィールド アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBA王座陥落
48 1997年6月28日 3R 失格 イベンダー・ホリフィールド アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ
49 1999年1月16日 5R 2:59 KO フランソワ・ボタ 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
50 1999年10月23日 NC 1R 3:00 ノーコンテスト オーリン・ノリス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
51 2000年1月29日 2R 1:03 TKO ジュリアス・フランシス イギリスの旗 イギリス
52 2000年6月24日 1R 0:38 TKO ルー・サバリーゼ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
53 2000年10月20日 NC 2R ノーコンテスト アンドリュー・ゴロタ ポーランドの旗 ポーランド
54 2001年10月13日 7R TKO ブライアン・ニールセン デンマークの旗 デンマーク
55 2002年6月8日 8R 2:25 KO レノックス・ルイス イギリスの旗 イギリス WBC・IBF・IBO世界ヘビー級タイトルマッチ
56 2003年2月22日 1R 0:49 KO クリフォード・エティエンヌ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
57 2004年7月30日 4R 2:51 KO ダニー・ウィリアムズ イギリスの旗 イギリス
58 2005年6月11日 6R 3:00 TKO ケビン・マクブライド アイルランドの旗 アイルランド

獲得タイトル [編集]

  • 第12代WBC世界ヘビー級王座
  • 第34代WBA世界ヘビー級王座
  • 第4代IBF世界ヘビー級王座
  • 第19代WBC世界ヘビー級王座
  • 第42代WBA世界ヘビー級王座

出演作品 [編集]

映画 [編集]

CM [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ 『ボクシングヘビー級最強伝説』 ベースボール・マガジン社、2009年5月29日、13頁
  2. ^ “Big Mike shakes off the pounds – and his lethargy” (英語). The Glasgow Herald. (1990年2月10日). p. 18. http://news.google.com/newspapers?id=iDg1AAAAIBAJ&sjid=VKYLAAAAIBAJ&pg=3862,3362563 2011年1月5日閲覧。 
  3. ^ タイソン氏3度目の結婚 ボクシングニュース「Box-on!」 2009年6月12日
  4. ^ マイク・タイソンさん、メッカ巡礼 服役後に入信 朝日新聞 2010年7月4日

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]

前王者
トレバー・バービック
第12代WBC世界ヘビー級王者

1986年11月22日 - 1990年2月11日

次王者
ジェームス・ダグラス
前王者
ジェームス・スミス
第34代WBA世界ヘビー級王者

1987年3月7日 - 1990年2月11日

次王者
ジェームス・ダグラス
前王者
トニー・タッカー
第4代IBF世界ヘビー級王者

1987年8月1日 - 1990年2月11日

次王者
ジェームス・ダグラス
前王者
フランク・ブルーノ
第19代WBC世界ヘビー級王者

1996年3月16日 - 1996年9月24日(剥奪)

空位
次タイトル獲得者
レノックス・ルイス
前王者
ブルース・セルドン
第42代WBA世界ヘビー級王者

1996年9月7日 - 1996年11月9日

次王者
イベンダー・ホリフィールド

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